ぶらり歩き

13. 三ノ輪、新吉原、浅草巡り                          平成20年10月18日

 地下鉄・三ノ輪駅で待ち合わせをして大学時代の友人4名で歩く。>
まず、地上に出てすぐにのところにある浄閑寺(じょうかんじ)(写真1)に立ち寄る。浄閑寺は、安政2年(1855年)の江戸地震のときに死亡した新吉原の遊女をこの寺に投げ込み同然に葬ったことから、別名、投込寺と呼ばれている。江戸地震は荒川河口を震源とする、いわゆる首都圏直下地震で4千名余の死者を出しているが、新吉原では685名の死者があったという。境内の墓所に、遊女を供養するための新吉原総霊塔(写真2)が建立されており、この日も塔前にきれいな献花が手向けられている。
 また、境内には、「生きては苦界 死しては浄閑寺  花酔」と刻まれた、川柳作家の花又花酔の句碑が建っている。
しかし、今では都心の一等地となった墓所はこれまでに見たこともないほどの狭い通路を隔てて、肩を寄せ合うように数多の墓石が建ち並んでいる。

 次に、国際通りに沿って歩き、千束稲荷神社に立ち寄る。境内には、この近くの龍泉町に十ケ月の短期間ではあるが、居住した樋口一葉の胸像(写真3)が置かれている。その正面には、
 明日ハ鎮守なる千束神社の大祭なり 今歳は殊ににぎはしく山車などをも引き出るとて 人々さわぐ
という碑文が刻まれている。
        

写真1 浄閑寺 写真2 浄閑寺 新吉原総霊塔  写真3 千束稲荷神社 樋口一葉胸像 



 
 千束稲荷神社から龍泉町に入ると、両親に連れられた子供達が遊びに興じている一葉記念公園がある。公園には、樋口一葉の名作「たけくらべ」を記念して、一葉と同い年で交流があった佐々木信綱の歌二首が刻まれた記念碑が建っている。

 子供達の活発な動きと歓声とは対照的に、公園の前に、一葉記念館(写真4)の建物が落ち着いた雰囲気で建っている。館内には、一葉の経歴、一葉が住んでいた二間長屋を含む地域の家並み模型、住居の間取り図、使っていた机の模型などが展示されている。特別展として一葉が居住した龍泉町に隣接する新吉原の遊女にスポツトを当てた展示が行われていた。
記念館のビデオライブラリーで名作たけくらべのあらすじを観賞して、新吉原を舞台にした思春期の男女を主人公にした物語であることを知る。それにしても、明治時代は寿命が短く、いまよりも早熟だとしても、16歳から小説を書き始め、わずか24歳の短い人生で文壇にその名を残した一葉は信じられない才能の持ち主といえる。最近、芥川賞を19歳の女子学生が受賞して話題となったが、それも影が薄くなってしまう。
 一葉が居住していた住居跡(写真5)は記念館から数ブロック離れたところにあるが、今は個人の住宅となっている。新吉原の四周に廻らされていたお歯黒溝(おはぐろどぶ)の跡に設けられたと思われる道を土手通りに向かって進む。明治時代の土手通りには馬肉屋が並び、大変な賑わいであったというが、明治38年創業の桜肉屋・中江(写真6)はそのような歴史の一端を今に伝えている。

写真4 一葉記念館 一葉たけくらべ記念碑 写真5 一葉住居跡  写真6 桜肉屋中江




 土手通りの吉原大門交差点には、吉原帰りの遊客が名残りを惜しんで新吉原を振り返ったことから見返り柳と名づけられたという6代目の柳と石碑(写真7)が立っている。

 江戸時代初期には、吉原は日本橋近くに設置されていたが、明暦の大火(1657年)、いわゆる振袖火事で吉原遊廓が焼失しまい、当時は湿地帯であった浅草に再建され、新吉原と呼ばれた。現在の新吉原には江戸時代の風俗、文化の発信地としての遊郭を偲ばせるものは残っていないが、明治5年(1872年)に遊郭の四隅に祀られていた開運稲荷榎本稲荷明石稲荷黒助稲荷の四稲荷社と地主神の玄徳(よしとく)稲荷を合祀して創建された吉原神社がある。

 新吉原造成の際に残った池の一部は弁天池と呼ばれ、弁天祠が祀られたという。大正12年(1923年)の関東大震災のときに、多くの人々が火災を逃れてこの池に入ったが、490名の溺死者を出す惨事となった。亡くなられた人々の供養のために築山の上に観音像(写真8)が造立され、見ると今日もたくさんの菊花が供えられている。現在、弁天池は埋め立てられてしまい、今は見ることはできない。
 
10月も半ばを過ぎ、年の瀬の近いのを感じ始める頃となってきたが、年の瀬の風物詩・酉の市で有名な鷲(おおとり)神社(写真9)を覘く。境内では職人がパイプ材で熊手売りの店小屋を組み立てるのに忙しく働いており、ひとりの参拝人もいない神社の休日のような殺風景さである。今年は11月5日の一の酉から17日の二の酉、29日の三の酉まであるので、世界的な金融不安を吹き飛ばしてもらいたいものである。
神社の近くの店には、今かとばかり出番を待つ熊手が山のように積まれている。

写真7 見返り柳石碑  写真8 観音像  写真9 鷲神社




 ここ昭和通りを上野方向に歩いて、鬼子母神のひとつで有名な真源寺(写真10)を訪ねる。元々は子供を奪っては食べてしまう悪神であったが、釈迦の説法で子育ての善神となった鬼子母神を祀る真源寺は、朝顔市でその名を知られている。
朝顔は奈良時代末期から平安時代にかけて遣唐使が種子が持ち帰り、日本に伝えられた。江戸時代になると、品種改良が進み、多様な形、色をした朝顔が栽培され、庶民の間で大変なブームを引き起こしたという。御徒町に住む下級武士も暇にまかせて朝顔を栽培するようになり、それが下谷に波及して真源寺の境内で朝市が開催されるようになったのが朝顔市の始まりのようである。太田南畝(おおたなんぽ)の「恐れ入りやの鬼子母神」という狂歌は語呂と調子といい、真源寺の朝顔市の盛況と江戸っ子の気風(きっぷ)の良さを表している。

 鬼子母神を後に、最終目的地の浅草寺に向かう。合羽橋辺りから急に人通りが多くなり、入館しようとする若者で賑やかな花やしきの前を通り抜けて浅草寺境内に入る。

 浅草寺は飛鳥時代の頃、隅田川で漁をしていた兄弟が一体の観音像を拾い上げ、自宅を寺に改造してこれを礼拝したことが始まりといわれており、1,400年あまりの歴史をもつ由緒ある寺である。本尊は聖観世音菩薩で、現在でもそうであるが、江戸k庶民にこよなく愛されて、江戸文化の一端を担い繁盛
した。

 本堂落慶50周年を記念して秘仏のご本尊が御開帳されているためか、17時の閉門間近の本堂には、観音様の慈悲を祈願しようとする参拝人が多数押しかけている。また、50周年を記念して、中村勘三郎を座長とする平成中村座が本堂裏の境内に芝居小屋を掛けて特別興行中である。薄壁一枚隔てた外にも歌舞伎の鳴り物の音が聞こえてきて、江戸情緒を感じさせる。
境内の片隅では、参拝帰りの人々が男女の猿使いによる猿回しを半円形に囲んで、猿回しの話術に笑いを誘われながら、訓練された猿の芸を楽しんでいる。

 本堂からは薄暮を背にライトアップされた五重塔、宝蔵門(写真11、12)が美しく浮かび上がって見える。

 お土産品の価値を高めようとするかのように、猛烈に明るく照明された仲見世は相変わらずの人ごみで、身体が触れないように気を遣いながら、雷門(写真13)に辿り着く。友人が買い求めた出来立ての人形焼を分けてもらうと、甘みと温かさが口中に広がり、とても美味しい。

 すでに日はとっぷりと暮れて、門の中に照明に照らされた仲見世が、そこだけが昼間のように輝いて見える。

 時間も程よく、事前に調べておいた居酒屋に向かうが、すでに予約で満席とのことで、近くの居酒屋に飛び込んで、樋口一葉、吉原を肴にウォーキングの疲れを癒す。この上ないリラックスタイムである。


写真10 真源寺 写真11 浅草寺宝蔵門、五重塔  写真12 浅草寺五重塔  



写真13 雷門
 

戻る


(C)2024 HIRAI. All Rights Reserved.